西洋文明発祥の地ギリシャの旅

イドラ島旅行記

早島 潮さんの旅行記

テーマ:

旅行記タイトル:西洋文明発祥の地ギリシャの旅

旅行期間:2000/04/17〜2000/04/25

旅行記の内容:アテネ、ボロス島、イドラ島、エギナ島、エピダウロス、ミ ケーネ、デルフィー、メテオラ
             2000年4月17日?4月25日

未明に空港からバスでアテネ市内に入り、最初に目に入った古代遺跡は、ライトアップされたゼウスの神殿の柱群である。
現在は柱が15本しか残っていないが、かつては104本のコリント式の列柱で支えられた巨大な神殿が 建てられていたところである。
そして現在のアマリアス大通りに面してハドリニアヌス帝の門がかつての威容を誇るかのように佇立している。


このゼウスの神殿はアテネの僭主ペイシストラトスが紀元前515年に着工したが、彼の失脚とともに中断していた。
その後紀元前175年にシリア王国のアンティオコス四世が再び着工したが彼の死とともに神殿工事もまた挫折してしまったという経緯がある。
このいわくつきの神殿を132年に完成させたのがローマ五賢帝の一人に数えられるハドリニアヌス帝(117?138)なのである。
             
 ハドリニアヌス帝の建てたゼウスの神殿はコリント様式で、二重周柱式( 長い側に二翼二列の柱がある)になっており、前後正面には8本の柱が三列 に置かれていた。
この巨大な神殿はコリント様式最大の建築物で当時の人々 から絶賛されたものであった。
コリント様式は柱頭にアカンサスの葉の飾りを備えていることが特徴とされる。
聖体安置室内には金と象牙で造られたゼ ウスの彫像が置かれ、また神域内にはハドリニアヌス帝の像が四体置かれていたという。


 祭神のゼウスはギリシャ人にとって、神々と人類の父であり、最高の支配者であり、自然現象(雨、光、雷)を司る神でもあった。
彼は人々の運命を 司り、正義を保護し、全般的に人類の存在を見守っていた。
ゼウスは至高の 神性であり、完全な倫理であった。


 暫しの快眠を貪った後、正午からアクロポリスの見学に出掛けた。
今日はたまたまパナテナイア祭と言って四年に一度の祭日だそうで、アクロポリスは多くの観光客で賑わっていた。
アクロポリスの入り口まではオリーブの樹木の生い茂る林間の勾配の小さな女道を通って行った。


 ギリシャ古代遺跡のハイライトである「アクロポリス」とは「高い丘の上の都市」という意味で、古代には神殿が建てられていた聖域である。
更に都市国家(ポリス)防衛の要塞として二重の役割を果していた場所でもある。
                
 アクロポリスへの入り口は丘の西端にある。
参道の階段を登っていき前門に向かって右側を見上げると美しいイオニア式の柱を東西に四本ずつ持つ小さな美しいアテナ・ニーケの神殿が建っている。
紀元前424年に完成されたもので、別名「翼なき勝利の女神」の神殿と呼ばれている。
戦いで常勝を願ったアテネ市民は勝利の女神がどこへもいけないように翼を切り落としてこの神殿に祀ったと伝えられている。


 参道を登りきる時に通る建物がプロピュライアと呼ばれる聖域入り口の正門であるが、左に北翼、右に南翼の建物と組み合わされている。
しかし、今は何れの建物も屋根が落ちて柱列と壁面だけしか残っていないが、中央の建物の柱はドーリヤ式で左右のものはイオニア式である。
ドーリヤ式は柱に溝があるだけで何の飾りもなく剛健な重量感を受けるのに対してイオニア式は柱頭に渦巻きの飾りを持ち柱にも繊細な優雅さを感じさせる。


 正門を通り抜けると目前にパルテノン神殿がドーリヤ式の石柱に囲まれて雄大な景観をつくり出している。
アテネの守護神アテナを祀ったパルテノン神殿は大理石で出来ており横31m、縦70m、柱の高さ10mの威容は市内のいたる所から眺められる。
この神殿は幾多の変遷を経て起源前438年に完成したと考えられている。
現在では柱と梁だけしか残っていないが往時には建物全体が芸術性の高い数多くの彫刻や浮き彫り(レリーフ)で飾られていたのである。
レリーフや破風の像の一部はアクロポリス博物館や大英帝国博物館に収蔵展示されている。
またパルテノン神殿の北側にはアクロポリスの中でも最も聖なる場所で多くの神々の家であるエレクティオンが建っている。
この建物も屋根が壊れて無くなっているが、目をひくのは柱代わりに使われている五人の少女の彫像でカリアティディスと呼ばれている。
カリアティディスは、頭にイオニア式の伝統的なキーマの装飾で飾られた籠を載せ、その上に正面の屋根がのっている。
踵まである衣服を着て土台の上にしっかりと乗っているにもかかわらず、足を僅かに曲げたその動きは、支えている屋根の重さを全く感じないかのような、優雅さと淑やかな美しさを表現している。


 アクロポリスの丘から周囲を展望するとアテネ市内が一望できてアテネ市街が果てし無く広がっているように見える。
北東にはリカビトスの丘が一際高く聳え立っているのも手にとるようにみえる。
アテネ市街は予想していたよりは遙に大きな都市であった。
手元の手帳の控えを見てみるとアテネ市の人口は303万人と記されている。
アテネ市はギリシャ国の人口が1060万人であるから国民の三割が住む大都会であることに納得のいく眺望であった。
ギリシャ人ガイドのカテリーナさんの説明によればアテネで生活するには最低月四万円必要であるという。
ちなみにギリシャの一人当たりGNPは99年の統計で年間11640US$であり、日本のそれは97年の統計で年間38160US$である。


 翌日はピレウス港から観光船のエルメス号に乗ってポロス島、イドラ島、エギナ島の順番でエーゲ海の島巡りをした。


 ポロス島は小さな島で時計台がある島である。
島からの風景を楽しむ所謂風光明媚な場所であるに過ぎないが、富裕階級が別荘を構えているリゾート地である。
ここでは朱色の屋根と白壁が特徴である。

                                                                                             次にイドラ島へ渡った。
この間エルメス号で魚のくずし身とチキンの昼食を摂り、葡萄酒の搾りかすから醸造するウゾという酒を飲んだ。
これは水を入れるとカルピスのように白濁する酒で松脂を加味してあるので独特の香りをもっている強い酒である。
イドラ島も富裕階級が別荘を建てて住んでいて水と車のない島である。
乗船場にはポニーが数頭用意されていて観光客を乗せて馬子が手綱をとり島内をポクポク巡回していた。
島民は雨水を貯めて飲料としているし定期貨物船が積んでくる水に依存しているという。
この島の中を小一時間あてもなく路地を散策した。
島の教会へも入ってみたが、構内はかなり広くギリシャ正教であった。
ギリシャ正教の特徴は偶像崇拝は認めないが聖人や聖母を描いたイコンという絵を飾るのが特徴である。
絵は平面的であるから偶像とは言えないという解釈なのであろうか。
面白いへ理屈だと一人ほくそ笑んでいた。


 最後のエギナ島は半漁半農の島でピスタチオの木が沢山植えられていた。

ここではオプショナルツァーに参加してドーリヤ式アフィア神殿を見学に行った。
これは紀元前6世紀末から5世紀初めに建てられた神殿でアルカイック時代の神殿の中では最も優れた建築の一つと言われている。
32本あった柱の内、今は24本だけが残っておりエギナ島で産出する石灰岩で造られている。
今日の日程はこれで終わり、アテネのホテルでの夕食はムサと呼ばれるギリシャ料理を堪能した。
ムサは馬鈴薯と茄子と魚のすり身を重ねて蒸したもので淡白な味である。


 次の日からアテネを離れて、エピダウロス、ミケーネ、デルフィー、メテオラとそれぞれの遺跡や名所を駆けめぐって三日振りにアテネへ戻り、国立考古学博物館を見学した。
その日はギリシャ正教の復活祭で教会は混雑しており、その影響でここにも人々が溢れかえっていた。
この博物館は百五年前に建てられたもので白い列柱を沢山持ち正面から見ると横に細長い建物である。
ここには先史時代(前1万年?前16世紀)からミケーネ時代(前166世紀?前12世紀)を経てローマ期(前31年?1453年)までの貴重な展示品が並べられている。
駆け足で有名なものだけ拾いながら観賞したがその幾つかを記してみると、                                   
 先史時代の「竪琴を弾く人物像」「フルートを吹く人物像」、ミケーネ時代の「黄金のマスク」「黄金の杯」「印章石」、ポセイドンのブロンズ像、馬に乗る少年のブロンズ像ディアドゥメノスの像、パルテノン神殿のアテナ女神像等がある。


 ギリシャ神話やギリシャの歴史を勉強して再度訪問してみたい魅力的な博物館である。


 次にリカビトスの丘へケーブルカーで登った。
ケーブルカーは予想に反してトンネルの中を登っていくだけなので周囲の見晴らしは全然きかなかった。
しかし、ケーブルカーから降りた途端に、四囲にアテネの市街が広がっており素晴らしい展望であった。
アクロポリスの丘やオリンピック競技場の全景が手にとるように見渡せた。
頂上にあるセント・ジョージという名の小さな教会には今日の復活祭に祝福を受けるためお参りをする信徒が正装して詰めかけていた。
教会内では敬虔な老若男女の信者達が神父から月桂樹の葉とフエニックスの葉で作られた十字架を恭しく授けられ十字を切っていた。


 続いてスニオン岬までポセイドンの神殿を見学するため長駆バスで走行した。
岬には所狭しと観光バスが詰めかけており、岬の突端には十五本のドーリヤ式円柱を白く輝かせて神殿が建っていた。
祭神のポセイドンは海の神とされているが、ギリシャ起源の神で大地と関係が深く、元来は地震の神や川の神であったが、この神を崇拝する人々がギリシャへ侵入してからのちに、その領域が海に及び、のちには主として海の神になったものと考えられている。
この地の神殿はアテネのパルテノン神殿より数年後に建てられたと言われている。
夕焼けが白い大理石と映えて美しいことで有名であるが、日没が午後八時半頃なので、残念ながら時間がなくて見ることができなかった。


 夕食はアテネ市内のプラカ地区のタベルナ(居酒屋)で民族舞踊を鑑賞ながらギリシャ料理とワインに舌鼓を打った。
ギリシャ料理の肉はよく炊き込んで筋や軟骨まで柔らかくなっているのが特徴である。
司会者の巧みな誘導に釣られて舞台に上がり年齢を忘れて踊りに興じる同行の人達もあってギリシャの夜を大いに楽しんだ。


エピダウロス、ミケーネ、デルフィー、メテオラを訪れた。
バスはギリシャの工業地帯を通ってミケーネへ向かってひた走る。
工業地帯を通過するときはえも言われぬ嫌な臭いが鼻をつく。
周囲を見ると石油精製工場や化成品工場とおぼしき工場から煙がむくむくと立ちのぼっている。
阪神工業地帯や京浜工業地帯の規模には及ぶべくもないが数個の工場群が立ち並んでいる。

 やがてバスはトイレ休憩をすることになった。
場所はペロポネソス半島とギリシャ本国とをあたかも瓢箪の括れの箇所で繋ぐコリントスの地である。
ここにはコリントス運河が設けられており、エーゲ海とイオニア海を僅か6km強の長さで繋いでいる。
幅24m、深さ80mのこの運河はギリシャの海運と物流に計り知れない恩恵をもたらしている。
たまたまこの運河をタグボートに曳航されながら渡航する貨物船を目撃するチャンスに恵まれたが、運河の幅一杯の船幅の貨物船が悠然と半島を横断する雄姿は深く切り込まれた運河の黄土色の土壁と海面の碧青色とのコンストラストとあいまって、美しく絵になる風景であった。



 医神アスクレピオスの聖地エピダウロスには一万四千人を収容できる古代の石造りの円形劇場がある。
起源前四世紀の建設であるが、極めて良好な保存状態で残されている。
ディオニソスの祭壇跡と呼ばれている中央広場地面の中心点にあたる小円に立って発声すると、上方に広がった観客席の隅々まで肉声が届くという音響効果抜群の施設である。
この広場の中央の地点から最上段までは、高さ22.5m、段数は55階段あり、扇形で上方へ末広がりに延びてゆく立体的な劇場遺跡は日本には見られない優れた文化遺産である。
あの有名な声楽家マリア・カラスがここでデビューしたことでも知られている。
中心点に立って拍手すると最上階の55段目に着席していてもその音が聞き取れるし、中心点で紙を破り、紙を揉む音の違いも聞き分けることができる程の素晴らしい設計である。
その素晴らしさの秘密は、黄金分割率を駆使した設計にあるといわれており、ギリシャ人の優れた資質を改めて再認識させられる遺跡であった。


 観光客なら誰でもこの音響効果抜群の地点に立って手を叩くなり、歌の一節なりとも歌って試してみたくなるところである。
それをずうずうしくも凡そ十分間も独占してゲーテの詩をドイツ語で朗読した強者がいた。
聞いてみるとドイツからの観光団の中年男性で、高校の国語の教師であった。
これに続いてドイツの若い女性が衆人環視の中で歌曲を一曲披露した。
さすが、ドイツ人は音楽の好きな自己顕示欲の強い民族だなと感心して聞いていると、我がグループでもH夫人が自慢の喉を披露するというハプニングがあった。
万事控えめでおしとやかなH夫人であっただけに人は見かけによらぬものとの思い一入であった。


 雨がそぼ降る中を暫く走行してやがてバスはミケーネの遺跡ヘ到着した。

ここは紀元前1600年?1400年頃栄えたミケーネ文明の遺跡で山々に囲まれたアルゴリス平野の北端の小高い丘の上に城砦跡がある。
この遺跡はトロイを攻撃したギリシャ軍の総指揮官ミケーネ王アガメンノンゆかりの地であると考えられており、1876年にシュリーマンによって発掘された。


 この城砦はアクロポリスの原型ともいえる形態である。
獅子の門には大きな三角石に二頭の獅子が浮き彫りされていて当時の権力を誇示しているかのように見える。
この門をくぐり抜けるとすぐ右下に円形墓地があって、直径26.5mの穴を穿っている。
この墓地からアガメムノンの黄金のマスクその他数多くの陶器や武具が発見されてアテネの考古学博物館に展示されている。
生憎雨が強くなってきたので、滑りやすい頂上の城跡へ登るのは、安全上諦めて平地にある「アトレウスの宝庫」へ歩を進めた。
この宝庫の内部はとても広くて、強力な王権の存在を証明するものである。
入り口には三角形の石を用いており天井は石組みのドームになっている。
発見された時には宝物は何一つ残されておらず盗掘のための侵入孔もなかったというからミステリーめいている。
多分天井ドームの頂点に穴をあけ、縄を吊るして侵入し、宝物を盗み出したのではないかと推定されている。


 ミケーネからデルフィーに至る道路の周囲にはユーカリの木、糸杉、オリーブ、オレンジの木々が立ち並び、一方で黄色いみもざの花やエニシダが咲き誇れば、他方では赤紫色のユダの花もこれに負けじとばかり妍を競っていた。
ユダの花はギリシァ語ではクツピアというらしいが花蘇方によく似ていて非なるものである。
山腹や田野に立ち並ぶ民家は一様に橙色の屋根に白壁であった。
そのうちにバスは山中に入り、やがて峠を越えると遠く前方の山腹に折からの陽光を受けて白く光っている小さな町並みが見えてきた。
これがパルナッサッソ山に抱かれたデルフィーである。
遠望するとそこは山深く雲が立ち込めていそうで如何にも神域という感じのする場所である。
デルフィーの町に到着して、標高650mの所にあるボウザホテルの部屋から見下ろすと山々に囲まれた平地は一面オリーブ畑で埋めつくされており、遙に望める低地のドルフィンの村落まで続いていた。


 デルフィーの博物館へ入ると階段の踊り場にデルフィーの神託が行われた「大地の臍」と呼ばれている石が展示されている。
その他展示場は全部で11室に別れていてアルカイック時代(前800年?前500年)からローマ時代(前31年?1453年)までの美術の変遷を見ることができるようになっている。


 古代世界でのデルフィーはギリシャの聖域であるだけではなく、全世界の中心と考えられていた。
デルフィーが世界の臍であると信じられていたのは世界中の都市国家がアポロン神への信仰を持っており、その神託で国の運命を決定するという祭政一致の世界観を持っていたからである。
アポロン神はもっともギリシャ的な晴朗な神で神話ではゼウスとレトの子でアルテミスと双子の兄妹で、音楽、弓術、医術、託宣を司るものと考えられていた。
ときとして太陽神ともみなされていた。
デルフィーの歴史は神話と伝説の世界にその起源をもっている。
ミケーネ時代(紀元前12世紀)からこの地は神を祀る場所になっていたがその全盛期は紀元前6世紀頃に迎えた。
このデルフ ィーの神域はローマの皇帝テオドシウス(379?395)によって閉鎖され衰退した。


 デルフィー遺跡の入り口から曲がりくねった参道を登って行くと、険しく迫る山を背景にアポロン神殿跡がある。
往時には岩間から立ちのぼる蒸気を吸って神がかりになった、巫女が神の御告げを授ける神事が行われたのである。


 神殿に至る参道の両側には多くの都市国家が神託の御礼として奉納した宝庫や奉納記念碑が立ち並んでいた。
しかし現在の姿は礎石や折れた石柱が並んでいるだけで説明がなければ素人目にはそれが何であったかはよく判らない。
それでもアポロン神殿だけは柱が数本立ち残っており、敷地の区画を辿ってみるとその神殿の規模を想像することは可能である。
アポロン神殿から更に上へ登っていくと円形劇場があり、これは保存状態がよいので即物的に素人目にも劇場であることが判る。
劇場から更に上へ十五分ばかり登っていくと山の尾根に造られた楕円形の競技場がそれとわかる形で残っている所へ至る。
ここまで来て俯瞰してみると、険しい山の中腹に築かれたデルフィーの遺跡群が如何に清浄で荘厳な環境の中に営まれていたかということが実感できる。


 厳粛な気持ちになってデルフィーを後にして近くにあるスキーのリゾート地アルホバへ立ち寄ってから山道を下り次の目的地カランバカへ向かった。

 オリーブ畑の続く田園風景を窓外に眺めながら走行するうち前方に険しい岩山が奇怪な形で立ち並ぶ所へ到着した。
メテオラへ入るための宿泊地として栄えたカランバカの村である。
宿泊したホテル・ディアニカランバカからはライトアップされた岩山群と赤いキューポラを持つ教会を絶妙のコントラストで間近に見ることが出来た。


 メテオラに入ると先ず目に入るのが非常に奇妙な形をした岩山の上に修道院が建っている風景である。
それが数多くあるところが面白い。
中にはロッククライミングをしている人達が岩にへばりついて虫のように小さく見える岩山もいくつかある。


 我々が訪れたのはメテオラ最大の修道院メガロ・メテオロンである。
この修道院は十四世紀にメテオラ出身の修道士アサナシオスによって建てられたもので、パラティス・リトスという岩の最上部にあり、その高さは五三四mある。
内部にはイコンの部屋、博物館、売店、展望台が設けられて観光客で賑わっていた。
今では俗世間とケーブルや階段で繋がれており、往来や物流も容易であるがこの修道院が創設された頃は道なき岩山をロッククライミングしながら、或いはロープで吊るして建設資材や生活用品を運んだと言われており、難行苦行しながら修業するのが修道士の定めであるとはいえ、その強靱な求道の意志の強さには驚嘆の思い一入であった。
最盛時には全部で二四の修道院が建てられ厳しい求道の生活が営まれていたが、現在活動している修道院はこの他にヴァルラーム修道院、ルサノス修道院、アギア・トリアダ修道院、聖ステファノス修道院(女)、聖ニコラオス修道院の五つだけになっている。


 物珍しい光景をしばし堪能した後、再び長駆アテネへ向かった。
メテオラを下りながら見下ろしたカランバカの町並みは朱色一色の屋根に白壁が映えとても美しかった。
道路の傍らに時々見え隠れしながら咲いている赤紫色のユダの花が鮮やかに映った。
やがて平地のハイウエイを一路アテネへ向けてひた走ったがハイウエイ沿いには黄色い野花が一面に咲き誇っていてギリシは今まさに春爛漫であった。



写真:アテネ、ボロス島、イドラ島、エギナ島、エピダウロス、ミ ケーネ、デルフィー、メテオラ
             2000年4月17日?4月25日

未明に空港からバスでアテネ市内に入り、最初に目に入った古代遺跡は、ライトアップされたゼウスの神殿の柱群である。
現在は柱が15本しか残っていないが、かつては104本のコリント式の列柱で支えられた巨大な神殿が 建てられていたところである。
そして現在のアマリアス大通りに面してハドリニアヌス帝の門がかつての威容を誇るかのように佇立している。


このゼウスの神殿はアテネの僭主ペイシストラトスが紀元前515年に着工したが、彼の失脚とともに中断していた。
その後紀元前175年にシリア王国のアンティオコス四世が再び着工したが彼の死とともに神殿工事もまた挫折してしまったという経緯がある。
このいわくつきの神殿を132年に完成させたのがローマ五賢帝の一人に数えられるハドリニアヌス帝(117?138)なのである。
             
 ハドリニアヌス帝の建てたゼウスの神殿はコリント様式で、二重周柱式( 長い側に二翼二列の柱がある)になっており、前後正面には8本の柱が三列 に置かれていた。
この巨大な神殿はコリント様式最大の建築物で当時の人々 から絶賛されたものであった。
コリント様式は柱頭にアカンサスの葉の飾りを備えていることが特徴とされる。
聖体安置室内には金と象牙で造られたゼ ウスの彫像が置かれ、また神域内にはハドリニアヌス帝の像が四体置かれていたという。


 祭神のゼウスはギリシャ人にとって、神々と人類の父であり、最高の支配者であり、自然現象(雨、光、雷)を司る神でもあった。
彼は人々の運命を 司り、正義を保護し、全般的に人類の存在を見守っていた。
ゼウスは至高の 神性であり、完全な倫理であった。


 暫しの快眠を貪った後、正午からアクロポリスの見学に出掛けた。
今日はたまたまパナテナイア祭と言って四年に一度の祭日だそうで、アクロポリスは多くの観光客で賑わっていた。
アクロポリスの入り口まではオリーブの樹木の生い茂る林間の勾配の小さな女道を通って行った。


 ギリシャ古代遺跡のハイライトである「アクロポリス」とは「高い丘の上の都市」という意味で、古代には神殿が建てられていた聖域である。
更に都市国家(ポリス)防衛の要塞として二重の役割を果していた場所でもある。
                
 アクロポリスへの入り口は丘の西端にある。
参道の階段を登っていき前門に向かって右側を見上げると美しいイオニア式の柱を東西に四本ずつ持つ小さな美しいアテナ・ニーケの神殿が建っている。
紀元前424年に完成されたもので、別名「翼なき勝利の女神」の神殿と呼ばれている。
戦いで常勝を願ったアテネ市民は勝利の女神がどこへもいけないように翼を切り落としてこの神殿に祀ったと伝えられている。


 参道を登りきる時に通る建物がプロピュライアと呼ばれる聖域入り口の正門であるが、左に北翼、右に南翼の建物と組み合わされている。
しかし、今は何れの建物も屋根が落ちて柱列と壁面だけしか残っていないが、中央の建物の柱はドーリヤ式で左右のものはイオニア式である。
ドーリヤ式は柱に溝があるだけで何の飾りもなく剛健な重量感を受けるのに対してイオニア式は柱頭に渦巻きの飾りを持ち柱にも繊細な優雅さを感じさせる。


 正門を通り抜けると目前にパルテノン神殿がドーリヤ式の石柱に囲まれて雄大な景観をつくり出している。
アテネの守護神アテナを祀ったパルテノン神殿は大理石で出来ており横31m、縦70m、柱の高さ10mの威容は市内のいたる所から眺められる。
この神殿は幾多の変遷を経て起源前438年に完成したと考えられている。
現在では柱と梁だけしか残っていないが往時には建物全体が芸術性の高い数多くの彫刻や浮き彫り(レリーフ)で飾られていたのである。
レリーフや破風の像の一部はアクロポリス博物館や大英帝国博物館に収蔵展示されている。
またパルテノン神殿の北側にはアクロポリスの中でも最も聖なる場所で多くの神々の家であるエレクティオンが建っている。
この建物も屋根が壊れて無くなっているが、目をひくのは柱代わりに使われている五人の少女の彫像でカリアティディスと呼ばれている。
カリアティディスは、頭にイオニア式の伝統的なキーマの装飾で飾られた籠を載せ、その上に正面の屋根がのっている。
踵まである衣服を着て土台の上にしっかりと乗っているにもかかわらず、足を僅かに曲げたその動きは、支えている屋根の重さを全く感じないかのような、優雅さと淑やかな美しさを表現している。


 アクロポリスの丘から周囲を展望するとアテネ市内が一望できてアテネ市街が果てし無く広がっているように見える。
北東にはリカビトスの丘が一際高く聳え立っているのも手にとるようにみえる。
アテネ市街は予想していたよりは遙に大きな都市であった。
手元の手帳の控えを見てみるとアテネ市の人口は303万人と記されている。
アテネ市はギリシャ国の人口が1060万人であるから国民の三割が住む大都会であることに納得のいく眺望であった。
ギリシャ人ガイドのカテリーナさんの説明によればアテネで生活するには最低月四万円必要であるという。
ちなみにギリシャの一人当たりGNPは99年の統計で年間11640US$であり、日本のそれは97年の統計で年間38160US$である。


 翌日はピレウス港から観光船のエルメス号に乗ってポロス島、イドラ島、エギナ島の順番でエーゲ海の島巡りをした。


 ポロス島は小さな島で時計台がある島である。
島からの風景を楽しむ所謂風光明媚な場所であるに過ぎないが、富裕階級が別荘を構えているリゾート地である。
ここでは朱色の屋根と白壁が特徴である。

                                                                                             次にイドラ島へ渡った。
この間エルメス号で魚のくずし身とチキンの昼食を摂り、葡萄酒の搾りかすから醸造するウゾという酒を飲んだ。
これは水を入れるとカルピスのように白濁する酒で松脂を加味してあるので独特の香りをもっている強い酒である。
イドラ島も富裕階級が別荘を建てて住んでいて水と車のない島である。
乗船場にはポニーが数頭用意されていて観光客を乗せて馬子が手綱をとり島内をポクポク巡回していた。
島民は雨水を貯めて飲料としているし定期貨物船が積んでくる水に依存しているという。
この島の中を小一時間あてもなく路地を散策した。
島の教会へも入ってみたが、構内はかなり広くギリシャ正教であった。
ギリシャ正教の特徴は偶像崇拝は認めないが聖人や聖母を描いたイコンという絵を飾るのが特徴である。
絵は平面的であるから偶像とは言えないという解釈なのであろうか。
面白いへ理屈だと一人ほくそ笑んでいた。


 最後のエギナ島は半漁半農の島でピスタチオの木が沢山植えられていた。

ここではオプショナルツァーに参加してドーリヤ式アフィア神殿を見学に行った。
これは紀元前6世紀末から5世紀初めに建てられた神殿でアルカイック時代の神殿の中では最も優れた建築の一つと言われている。
32本あった柱の内、今は24本だけが残っておりエギナ島で産出する石灰岩で造られている。
今日の日程はこれで終わり、アテネのホテルでの夕食はムサと呼ばれるギリシャ料理を堪能した。
ムサは馬鈴薯と茄子と魚のすり身を重ねて蒸したもので淡白な味である。


 次の日からアテネを離れて、エピダウロス、ミケーネ、デルフィー、メテオラとそれぞれの遺跡や名所を駆けめぐって三日振りにアテネへ戻り、国立考古学博物館を見学した。
その日はギリシャ正教の復活祭で教会は混雑しており、その影響でここにも人々が溢れかえっていた。
この博物館は百五年前に建てられたもので白い列柱を沢山持ち正面から見ると横に細長い建物である。
ここには先史時代(前1万年?前16世紀)からミケーネ時代(前166世紀?前12世紀)を経てローマ期(前31年?1453年)までの貴重な展示品が並べられている。
駆け足で有名なものだけ拾いながら観賞したがその幾つかを記してみると、                                   
 先史時代の「竪琴を弾く人物像」「フルートを吹く人物像」、ミケーネ時代の「黄金のマスク」「黄金の杯」「印章石」、ポセイドンのブロンズ像、馬に乗る少年のブロンズ像ディアドゥメノスの像、パルテノン神殿のアテナ女神像等がある。


 ギリシャ神話やギリシャの歴史を勉強して再度訪問してみたい魅力的な博物館である。


 次にリカビトスの丘へケーブルカーで登った。
ケーブルカーは予想に反してトンネルの中を登っていくだけなので周囲の見晴らしは全然きかなかった。
しかし、ケーブルカーから降りた途端に、四囲にアテネの市街が広がっており素晴らしい展望であった。
アクロポリスの丘やオリンピック競技場の全景が手にとるように見渡せた。
頂上にあるセント・ジョージという名の小さな教会には今日の復活祭に祝福を受けるためお参りをする信徒が正装して詰めかけていた。
教会内では敬虔な老若男女の信者達が神父から月桂樹の葉とフエニックスの葉で作られた十字架を恭しく授けられ十字を切っていた。


 続いてスニオン岬までポセイドンの神殿を見学するため長駆バスで走行した。
岬には所狭しと観光バスが詰めかけており、岬の突端には十五本のドーリヤ式円柱を白く輝かせて神殿が建っていた。
祭神のポセイドンは海の神とされているが、ギリシャ起源の神で大地と関係が深く、元来は地震の神や川の神であったが、この神を崇拝する人々がギリシャへ侵入してからのちに、その領域が海に及び、のちには主として海の神になったものと考えられている。
この地の神殿はアテネのパルテノン神殿より数年後に建てられたと言われている。
夕焼けが白い大理石と映えて美しいことで有名であるが、日没が午後八時半頃なので、残念ながら時間がなくて見ることができなかった。


 夕食はアテネ市内のプラカ地区のタベルナ(居酒屋)で民族舞踊を鑑賞ながらギリシャ料理とワインに舌鼓を打った。
ギリシャ料理の肉はよく炊き込んで筋や軟骨まで柔らかくなっているのが特徴である。
司会者の巧みな誘導に釣られて舞台に上がり年齢を忘れて踊りに興じる同行の人達もあってギリシャの夜を大いに楽しんだ。


エピダウロス、ミケーネ、デルフィー、メテオラを訪れた。
バスはギリシャの工業地帯を通ってミケーネへ向かってひた走る。
工業地帯を通過するときはえも言われぬ嫌な臭いが鼻をつく。
周囲を見ると石油精製工場や化成品工場とおぼしき工場から煙がむくむくと立ちのぼっている。
阪神工業地帯や京浜工業地帯の規模には及ぶべくもないが数個の工場群が立ち並んでいる。

 やがてバスはトイレ休憩をすることになった。
場所はペロポネソス半島とギリシャ本国とをあたかも瓢箪の括れの箇所で繋ぐコリントスの地である。
ここにはコリントス運河が設けられており、エーゲ海とイオニア海を僅か6km強の長さで繋いでいる。
幅24m、深さ80mのこの運河はギリシャの海運と物流に計り知れない恩恵をもたらしている。
たまたまこの運河をタグボートに曳航されながら渡航する貨物船を目撃するチャンスに恵まれたが、運河の幅一杯の船幅の貨物船が悠然と半島を横断する雄姿は深く切り込まれた運河の黄土色の土壁と海面の碧青色とのコンストラストとあいまって、美しく絵になる風景であった。



 医神アスクレピオスの聖地エピダウロスには一万四千人を収容できる古代の石造りの円形劇場がある。
起源前四世紀の建設であるが、極めて良好な保存状態で残されている。
ディオニソスの祭壇跡と呼ばれている中央広場地面の中心点にあたる小円に立って発声すると、上方に広がった観客席の隅々まで肉声が届くという音響効果抜群の施設である。
この広場の中央の地点から最上段までは、高さ22.5m、段数は55階段あり、扇形で上方へ末広がりに延びてゆく立体的な劇場遺跡は日本には見られない優れた文化遺産である。
あの有名な声楽家マリア・カラスがここでデビューしたことでも知られている。
中心点に立って拍手すると最上階の55段目に着席していてもその音が聞き取れるし、中心点で紙を破り、紙を揉む音の違いも聞き分けることができる程の素晴らしい設計である。
その素晴らしさの秘密は、黄金分割率を駆使した設計にあるといわれており、ギリシャ人の優れた資質を改めて再認識させられる遺跡であった。


 観光客なら誰でもこの音響効果抜群の地点に立って手を叩くなり、歌の一節なりとも歌って試してみたくなるところである。
それをずうずうしくも凡そ十分間も独占してゲーテの詩をドイツ語で朗読した強者がいた。
聞いてみるとドイツからの観光団の中年男性で、高校の国語の教師であった。
これに続いてドイツの若い女性が衆人環視の中で歌曲を一曲披露した。
さすが、ドイツ人は音楽の好きな自己顕示欲の強い民族だなと感心して聞いていると、我がグループでもH夫人が自慢の喉を披露するというハプニングがあった。
万事控えめでおしとやかなH夫人であっただけに人は見かけによらぬものとの思い一入であった。


 雨がそぼ降る中を暫く走行してやがてバスはミケーネの遺跡ヘ到着した。

ここは紀元前1600年?1400年頃栄えたミケーネ文明の遺跡で山々に囲まれたアルゴリス平野の北端の小高い丘の上に城砦跡がある。
この遺跡はトロイを攻撃したギリシャ軍の総指揮官ミケーネ王アガメンノンゆかりの地であると考えられており、1876年にシュリーマンによって発掘された。


 この城砦はアクロポリスの原型ともいえる形態である。
獅子の門には大きな三角石に二頭の獅子が浮き彫りされていて当時の権力を誇示しているかのように見える。
この門をくぐり抜けるとすぐ右下に円形墓地があって、直径26.5mの穴を穿っている。
この墓地からアガメムノンの黄金のマスクその他数多くの陶器や武具が発見されてアテネの考古学博物館に展示されている。
生憎雨が強くなってきたので、滑りやすい頂上の城跡へ登るのは、安全上諦めて平地にある「アトレウスの宝庫」へ歩を進めた。
この宝庫の内部はとても広くて、強力な王権の存在を証明するものである。
入り口には三角形の石を用いており天井は石組みのドームになっている。
発見された時には宝物は何一つ残されておらず盗掘のための侵入孔もなかったというからミステリーめいている。
多分天井ドームの頂点に穴をあけ、縄を吊るして侵入し、宝物を盗み出したのではないかと推定されている。


 ミケーネからデルフィーに至る道路の周囲にはユーカリの木、糸杉、オリーブ、オレンジの木々が立ち並び、一方で黄色いみもざの花やエニシダが咲き誇れば、他方では赤紫色のユダの花もこれに負けじとばかり妍を競っていた。
ユダの花はギリシァ語ではクツピアというらしいが花蘇方によく似ていて非なるものである。
山腹や田野に立ち並ぶ民家は一様に橙色の屋根に白壁であった。
そのうちにバスは山中に入り、やがて峠を越えると遠く前方の山腹に折からの陽光を受けて白く光っている小さな町並みが見えてきた。
これがパルナッサッソ山に抱かれたデルフィーである。
遠望するとそこは山深く雲が立ち込めていそうで如何にも神域という感じのする場所である。
デルフィーの町に到着して、標高650mの所にあるボウザホテルの部屋から見下ろすと山々に囲まれた平地は一面オリーブ畑で埋めつくされており、遙に望める低地のドルフィンの村落まで続いていた。


 デルフィーの博物館へ入ると階段の踊り場にデルフィーの神託が行われた「大地の臍」と呼ばれている石が展示されている。
その他展示場は全部で11室に別れていてアルカイック時代(前800年?前500年)からローマ時代(前31年?1453年)までの美術の変遷を見ることができるようになっている。


 古代世界でのデルフィーはギリシャの聖域であるだけではなく、全世界の中心と考えられていた。
デルフィーが世界の臍であると信じられていたのは世界中の都市国家がアポロン神への信仰を持っており、その神託で国の運命を決定するという祭政一致の世界観を持っていたからである。
アポロン神はもっともギリシャ的な晴朗な神で神話ではゼウスとレトの子でアルテミスと双子の兄妹で、音楽、弓術、医術、託宣を司るものと考えられていた。
ときとして太陽神ともみなされていた。
デルフィーの歴史は神話と伝説の世界にその起源をもっている。
ミケーネ時代(紀元前12世紀)からこの地は神を祀る場所になっていたがその全盛期は紀元前6世紀頃に迎えた。
このデルフ ィーの神域はローマの皇帝テオドシウス(379?395)によって閉鎖され衰退した。


 デルフィー遺跡の入り口から曲がりくねった参道を登って行くと、険しく迫る山を背景にアポロン神殿跡がある。
往時には岩間から立ちのぼる蒸気を吸って神がかりになった、巫女が神の御告げを授ける神事が行われたのである。


 神殿に至る参道の両側には多くの都市国家が神託の御礼として奉納した宝庫や奉納記念碑が立ち並んでいた。
しかし現在の姿は礎石や折れた石柱が並んでいるだけで説明がなければ素人目にはそれが何であったかはよく判らない。
それでもアポロン神殿だけは柱が数本立ち残っており、敷地の区画を辿ってみるとその神殿の規模を想像することは可能である。
アポロン神殿から更に上へ登っていくと円形劇場があり、これは保存状態がよいので即物的に素人目にも劇場であることが判る。
劇場から更に上へ十五分ばかり登っていくと山の尾根に造られた楕円形の競技場がそれとわかる形で残っている所へ至る。
ここまで来て俯瞰してみると、険しい山の中腹に築かれたデルフィーの遺跡群が如何に清浄で荘厳な環境の中に営まれていたかということが実感できる。


 厳粛な気持ちになってデルフィーを後にして近くにあるスキーのリゾート地アルホバへ立ち寄ってから山道を下り次の目的地カランバカへ向かった。

 オリーブ畑の続く田園風景を窓外に眺めながら走行するうち前方に険しい岩山が奇怪な形で立ち並ぶ所へ到着した。
メテオラへ入るための宿泊地として栄えたカランバカの村である。
宿泊したホテル・ディアニカランバカからはライトアップされた岩山群と赤いキューポラを持つ教会を絶妙のコントラストで間近に見ることが出来た。


 メテオラに入ると先ず目に入るのが非常に奇妙な形をした岩山の上に修道院が建っている風景である。
それが数多くあるところが面白い。
中にはロッククライミングをしている人達が岩にへばりついて虫のように小さく見える岩山もいくつかある。


 我々が訪れたのはメテオラ最大の修道院メガロ・メテオロンである。
この修道院は十四世紀にメテオラ出身の修道士アサナシオスによって建てられたもので、パラティス・リトスという岩の最上部にあり、その高さは五三四mある。
内部にはイコンの部屋、博物館、売店、展望台が設けられて観光客で賑わっていた。
今では俗世間とケーブルや階段で繋がれており、往来や物流も容易であるがこの修道院が創設された頃は道なき岩山をロッククライミングしながら、或いはロープで吊るして建設資材や生活用品を運んだと言われており、難行苦行しながら修業するのが修道士の定めであるとはいえ、その強靱な求道の意志の強さには驚嘆の思い一入であった。
最盛時には全部で二四の修道院が建てられ厳しい求道の生活が営まれていたが、現在活動している修道院はこの他にヴァルラーム修道院、ルサノス修道院、アギア・トリアダ修道院、聖ステファノス修道院(女)、聖ニコラオス修道院の五つだけになっている。


 物珍しい光景をしばし堪能した後、再び長駆アテネへ向かった。
メテオラを下りながら見下ろしたカランバカの町並みは朱色一色の屋根に白壁が映えとても美しかった。
道路の傍らに時々見え隠れしながら咲いている赤紫色のユダの花が鮮やかに映った。
やがて平地のハイウエイを一路アテネへ向けてひた走ったがハイウエイ沿いには黄色い野花が一面に咲き誇っていてギリシは今まさに春爛漫であった。



アクロポリスの丘

パルテノン

エレクティオン

ボロス島

イドラ島

エギナ島のアフィア神殿

コリントス運河

エピダウロスの円形劇場

ミケーネ。
アトレウスの宝庫

デルフィー。
アポロンの神殿

カランバカ

メテオラ

スニオン。
ポセイドン神殿

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